今日は、阿久悠が生まれた日!
今日は、日本の歌謡史上、最も大きな業績を上げた阿久悠誕生の日です。この機会に、彼の偉大な足跡をちょっとだけ紐解いてみましょう。
阿久悠は、1937年(昭和12年)2月7日、兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町)生まれ。兵庫県立洲本高等学校に学んだあと、明治大学文学部文学科日本文学専攻入学しました。大学卒業後は宣弘社に入社しましたが、1966年に同社を退職すると、以前から手を染めていた放送作家の仕事を本格的に開始しました。
その後の活躍は、周知のとおりですが、作詞家として手がけた『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)が第13回日本レコード大賞を受賞(1971年)したのを皮切りに、『北の宿から』(都はるみ)、『勝手にしやがれ』(沢田研二)、『UFO』(ピンク・レディー)などの大ヒット曲をはじめ、アニメソングやCM曲まで幅広いジャンルで数々のヒット曲を世に送り出し、その数は5,000曲以上に及びます。高度経済成長の好景気に乗って、日本中を沸かせたはやり歌の多くは、いわば世相を介した彼の詩世界そのものだったのでしょう。
阿久悠がかかわった曲の日本レコード大賞受賞は史上最多の5回、シングルレコードの売り上げは6,800万枚を越え、史上1位の偉業となりました。
また、その活躍は作詞のみにとどまらず、直木賞候補となった『瀬戸内少年野球団』をはじめとする小説作品や、アフォリズム(警句)の手法を駆使したエッセイ、詩歌を数多く発表するなど、作家としても大きな業績を残しました。なお、『瀬戸内少年野球団』は映画化され大きな反響を呼びました。
1997年には作詞活動30年の功績で第45回菊池寛賞を受賞、1998年明治大学特別功労賞、1999年紫綬褒章、2007年旭日小綬章などを受賞しています。
2007年(平成19年)8月1日、阿久悠は惜しまれながら70年の生涯を終えました。
2010年には、自筆原稿をはじめ阿久関係資料およそ1万点が遺族から寄贈されたことを受け、彼の業績をたたえ、その遺産を次世代に継承していくことを目的として、明治大学内に阿久悠記念館がオープンしました。
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阿久悠は、1937年(昭和12年)2月7日、兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町)生まれ。兵庫県立洲本高等学校に学んだあと、明治大学文学部文学科日本文学専攻入学しました。大学卒業後は宣弘社に入社しましたが、1966年に同社を退職すると、以前から手を染めていた放送作家の仕事を本格的に開始しました。
その後の活躍は、周知のとおりですが、作詞家として手がけた『また逢う日まで』(尾崎紀世彦)が第13回日本レコード大賞を受賞(1971年)したのを皮切りに、『北の宿から』(都はるみ)、『勝手にしやがれ』(沢田研二)、『UFO』(ピンク・レディー)などの大ヒット曲をはじめ、アニメソングやCM曲まで幅広いジャンルで数々のヒット曲を世に送り出し、その数は5,000曲以上に及びます。高度経済成長の好景気に乗って、日本中を沸かせたはやり歌の多くは、いわば世相を介した彼の詩世界そのものだったのでしょう。
阿久悠がかかわった曲の日本レコード大賞受賞は史上最多の5回、シングルレコードの売り上げは6,800万枚を越え、史上1位の偉業となりました。
また、その活躍は作詞のみにとどまらず、直木賞候補となった『瀬戸内少年野球団』をはじめとする小説作品や、アフォリズム(警句)の手法を駆使したエッセイ、詩歌を数多く発表するなど、作家としても大きな業績を残しました。なお、『瀬戸内少年野球団』は映画化され大きな反響を呼びました。
1997年には作詞活動30年の功績で第45回菊池寛賞を受賞、1998年明治大学特別功労賞、1999年紫綬褒章、2007年旭日小綬章などを受賞しています。
2007年(平成19年)8月1日、阿久悠は惜しまれながら70年の生涯を終えました。
2010年には、自筆原稿をはじめ阿久関係資料およそ1万点が遺族から寄贈されたことを受け、彼の業績をたたえ、その遺産を次世代に継承していくことを目的として、明治大学内に阿久悠記念館がオープンしました。
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