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株式会社 夢の友出版 公式ブログ

 

秋を感じるクラシック曲~サティ『3つのジムノペディ』 

 どこか風変わりで心に残る美しい曲を書いたサティ(エリック・サティErik Alfred Leslie Satie、1866~1925)は、現代においても異色の輝きを放っています。

 サティは近代から現代の西洋音楽に大きな影響を与えた作曲家で、ドビュッシーやラヴェルにも影響を与えたといわれています。彼は、フランス人らしいエスプリとユーモアの精神を存分に発揮し、ピアノ曲『犬のための本当にぶよぶよした前奏曲』『ひからびた胎児』『官僚的なソナチネ』など、ちょっと変わった名前の作品を数多く残しています。また、シャンソンの代表作『ジュ・トゥ・ヴ(あなたが欲しい)』などの名曲もあります。「反ロマン主義、反印象派」の革新的作曲家とされる一方で、「音楽界の変わり者、異端児」などとも称されていますが、彼自身、自分の理想の音楽をひたすら追い求めた結果だったのです。

 サティの作品の中でも、最も有名で日本人にも親しまれているのが、彼がまだパリ音楽院在学中に作曲したピアノ小品『ジムノペディ』(Gymnopédies)です。この曲は、正式には『3つのジムノペディ』といい、3つの短い曲からできています。3/4拍子のゆったりとした穏やかなテンポ、愁いを帯びた知的でエレガントな旋律など、ピアノ独奏による不思議な世界が展開され、思わず引き込まれてしまいます。

 この3曲には次のような標題がついています。

 第1番 ゆっくりと悩める如く
 第2番 ゆっくりと悲しげに
 第3番 ゆっくりと荘厳に

 まさに秋を感じるにふさわしい名曲です。ぜひ、この秋、じっくりと味わってみてはいかがでしょう。

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フォーレの音楽 

 フォーレ(Gabriel Fauré 1845~1924)の音楽は、どの曲も透明感にあふれ叙情性に満ちている。
 彼は、当時のフランスの作曲家の多くが学んだパリ音楽院ではなく、パリのニデルメイエール音楽学校に入学し11年間宗教音楽を中心に学んだが、そこで教鞭をとっていたサン・サーンスと運命的出会いを果たすことになる。フォーレは後に、今の私があるのは、すべてサン・サーンスのおかげだと述べている。
 この音楽学校でサン・サーンスの教えるピアノのクラスに入り、リストやワーグナーの楽曲に触れるうちに作曲に興味を覚え始める。卒業後、サン・サーンスの国民音楽協会に参加し、マドレーヌ教会の主席オルガン奏者になるころから、本格的な作曲活動を始めた。

 オーケストラ曲では、メーテルリンクの戯曲上演のために作曲した劇音楽『ペレアスとメリザンド』が名曲で、組曲全4曲中、特に第3曲の「シシリエンヌ」は、ハープの優しい音色に導かれフルートが美しい至福のメロディーを奏でる。また、最も有名な『レクイエム』は、気品に満ち詩情性あふれる傑作で、「死は幸せな解放」という彼の生死観が明確に表現されている。これは両親の死が影響を与えたといわれている。
 その他にも、ロマン派の詩による有名な『夢のあとに』や『リディア』などの歌曲、ベルレーヌの詩による『月の光』と『優しい歌』、最晩年の『幻の水平線』などの数多くの名曲がある。

 フォーレの後半生は、耳の疾患により聴力を奪われるという不幸に見舞われたが、創作への思いは衰えず、生涯をかけて作曲活動に専念した。特に晩年の室内楽曲の数々は、ベートーヴェンともならび称される秀作とされている。

 1924年にパリにて死去。国葬が行われている。彼は、ベルリオーズに始まったフランス音楽の栄光を豊かな感性で継承し、後のドビュッシーやラヴェルに引き継ぐという偉業を果たした。

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クララ・シューマンの音楽と愛 

 ロベルト・シューマンの愛妻として知られるクララ・シューマンは、1819年、ザクセン王国のライプツィヒに生まれました。彼女は、稀有な天才ピアニストであると同時に、作曲家としての才能にもあふれていました。
 
 父フリードリヒは、彼女の才能を見抜くと彼女を学校へは通わせず、ピアノの厳しいレッスンや教育のすべてを個人授業で行うという徹底した管理教育を実施しました。さらに驚くことに、将来音楽家としてふさわしい記録となるようにと、彼女の日記をすべてチェックし書き直すほどだったといいます。
 
 彼女は、父フリードリヒの望み通り、やがて天才少女としてその名を知られるようになります。9歳の時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で、モーツァルトのピアノ協奏曲でソリストを務め絶賛されたクララは、その後天才女流ピアニストとして活躍するようになります。彼女のピアノ演奏は、ショパンやリストを始めゲーテも賞賛したといいます。また、クララは、以前から続けてきた作曲活動にも本格的に取り組んでいます。

 そんな折、父フリードリヒに若い音楽家ロベルト・シューマンが師事し家族と同居を始めることになります。ドイツの教養にあふれ音楽的革新を志す才能豊かなロベルトとクララの間に恋愛感情が芽生えるのに、それほどの時間はかかりませんでした。クララが18歳になったとき、二人は父に結婚の許可を申し出ましたが、父はそれに猛反対。クララはまさにピアニストとして人気の絶頂にあり、父は結婚を認めることは到底出来なかったのです。しかし、二人は裁判をおこし父フリードとの決別を決断します。1840年9月、二人は晴れて結婚、クララ20歳、ロベルト30歳のことでした。

 クララの結婚生活は、8人の子に恵まれ、ピアニストとして活動しながら子育てにも奮闘する毎日でした。一方、夫のロベルトは、情感豊かな歌曲や室内楽曲、ピアノ独奏曲などに才能を発揮し偉大なロマン派の作曲家として大成します。また、彼は、当時無名だったショパンやブラームスを絶賛し世に送り出すという、若い世代の才能発掘にも尽力しました。

 しかし、その後、夫ロベルトは精神を病み、ライン川に身を投げて自殺未遂をはかり、クララが36歳のとき入院した精神病院で亡くなります。クララは深い悲しみのなか、子どもの養育のために、ドイツだけでなくヨーロッパ各地の演奏旅行にあけくれたといいます。また、クララは、1877年には夫の作品全集の編纂に着手するなど、ロベルト・シューマンの作品を世に紹介することにも力を尽くしたのです。

 なお、夫の死後、クララがそれまでも特別な友情で結ばれ親交が深かったヨハネス・ブラームスと恋愛関係になったという説があります。これは映画にもなり評判となりましたが、その事実は明確ではありません。ブラームスが世に認められたのはロベルトの力によるところが大きく、恩人の妻クララとブラームスの恋愛がプラトニックなものであったという見解もあり、二人の関係は音楽史上の謎となっています。
 
 クララは、夫の死後再婚することなく1896年に76歳の生涯を終えています。なお、クララが亡くなって1年足らずして、ブラームスも後を追うように亡くなっています。


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古楽器リュートの魅力 

 リュートの人気の秘密は、なんといっても繊細で華麗な美しい音色にあります。また、軽量で操作が比較的容易なことや美しい曲が多いこともあり、現在でもリュートファンは、日本を含め世界中にたくさんいます。

 リュートは、中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた復弦の楽器です。当時、イタリア、イギリス、フランス、ドイツなどで盛んだった宮廷音楽では、リュート音楽が大流行だったそうです。貴族たちは楽器職人にリュートなどの高価な楽器を作らせ、専属の奏者に弾かせて晩餐会などを楽しんでいたといい、その様子は絵画などにもたびたび描かれています。リュート音楽では、17世紀までに優れた作曲家や演奏家が数多く誕生しました。

 リュートのかたちが完成したのは16世紀ころで、弦は6コース11弦(最高弦のみ単弦で、他は複弦)が標準となり、指で弾いて演奏されました。それ以前からも宗教曲や世俗的な曲に加わって、一つの声部を単音で演奏したり、即興的に和音を弾いていたとされます。現存する最古の印刷譜は、イタリアで16世紀初頭に出版された「リュート曲集」ですが、その後も多くの出版物が相次ぎ、リュート音楽は全盛期を迎えました。

 16世紀後半になると低音弦が増え、17世紀には10~12コースのリュートが作られて、バロック・リュートと呼ばれ区別されました。さらに、低音弦用の長い棹を取り付けた通奏低音楽器が出現するなど、弦の数が増え大型化するにつれ、演奏するのがしだいに難しくなりました。演奏家の間では、「リュートの奏者は生涯の半分を調弦に費やす」などといわれ、楽器の維持費も嵩んだため、その後台頭したチェンバロによって、リュートは急速にその地位を失い、長い間忘れられた存在になっていました。

 しかし、20世紀になって古楽器についての研究や演奏が頻繁に行われ、リュートは、根強い人気を背景に次第に復興してきました。日本でもクラシックギターブームとともに、1970年代頃から演奏家による活動が盛んになり、楽器製作も行われるようになってきました。最近では、古典的な形式のリュート製作も行われています。

 なお、興味のある方は、「日本リュート協会」にお問合せいただくか、リュートなどの古楽器に関する専門誌「アントレ」(月刊)がありますのでご覧になってはいかがでしょう。

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変幻自在・ストラヴィンスキー『春の祭典』 

 イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky、1882~1971)が20世紀後半に、ロシア・バレエ団を主宰するディアギレフの委嘱で作曲したバレエ3部作(『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』)は、いずれの初演も極めてセンセーショナルなものでした。特に、『春の祭典』は刺激的で、作品に対する賛否両論の嵐が吹き荒れることになりました。

 この時代のストラヴィンスキーの作風は、原始主義(プリミティヴィズム)と呼ばれています。これはバレエの題材をロシア民謡から採り原始信仰をテーマとしたもので、強烈なリズムと色彩に彩られています。変拍子を巧みに採り入れ時々刻々と変化するリズムと場面展開は、観衆を目もくらむような音楽的な興奮状態に導きました。

 当時、絶大な人気を博していたロシア・バレエ団のスター・ダンサーであるヴァスラフ・ニジンスキーは、ダンサーとしてはもちろん振付師としても稀有の才能を発揮し、『春の祭典』を成功に導いたそうです。

 その後、ストラヴィンスキーはロシア革命を避けてアメリカに定住しますが、新天地では、バッハやヘンデルなどの音楽に霊感を抱くようになり作風が一変します。宗教的な声楽曲を手がけるなど、彼の信奉者たちさえ戸惑わせたることになりました。これは“新古典主義”と呼ばれています。晩年は、新しい12音技法を積極的に採り入れ前衛的な作品も発表しています。

 19世紀後半から20世紀にかけて、大きく変化していく世界に寄り添うように、自ら信じる音楽を変化させていった多彩な才能の持ち主こそ、ストラヴィンスキーに他なりません。
 彼は、作曲家として華麗にスタートしたがゆえに常に注目され、自ら革新的な音楽家として模索と試行錯誤を繰り返した努力の人でもあります。

 ストラヴィンスキーは、20世紀を代表する作曲家の1人として、近現代の芸術に広く影響を及ぼしました。1971年4月6日、ニューヨークにおいて89歳で没。

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